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  • 執筆者の写真近藤 ちづる

これを読むと私のすべてがわかります。         市長選を振り返って!(平成27年)

更新日:2020年9月12日


選挙戦を振り返って! 市長選では大変お世話になりました。 ようやく机に向かう時間ができるようになり、落ち着きとともに自分の選挙の反省点などが見えてきました。 かなり厳しい選挙選になることは初めから覚悟はしていました 何と言っても現役の2期目の市長さんですから・・・・・ しかし、市立病院の医師不足の問題はもう待ったなしの状態でした。そして、今までの私の活動の中で、街を本気で変えたいと思ったら市長だと思っていました。スピード感が違います。威力が違うのです。また、議会の様子も何度も見に行きましたがそのたびに市議会議員では限界があることを悟りました。 議会基本条例の設置など到底無理だと感じました。 市民にしっかりと情報を共有するというような動きも見えてきません。 私は何もかも変えていきたかった! 今までの活動の中で、女性がもう少し生きやすい街にしたいといつも思っていました。 私が旧芝川町と富士宮市の合併をやってきて、政治に足を踏み込んで感じたことは 志の高い議員さんばかりでないこと! また、しがらみだらけの政治では限界があること! 市議会から出馬した方がいいと何度も言われましたが、私の地域は一緒に合併をやった仲間が市議会選に出馬しているのです(同じ町内です) 私が出馬すると地域を二分してしまいます。 私は芝川の合併で町民が大変な痛みをおってきたのを見てきました。 合併賛成・反対で街が二分したのです。 地域のきずなにもひびが入ってしまったのをみてきました。 やっとの思いで合併したのに、今度は富士宮市の市議選で仲間同士で地域を混乱に落とすことは私の常識ではできませんでしたし、地域では女性の私を押すようなことは決してなかったのです。 町会議員の選挙戦も私の友人3人だけでやりました。それでも、上位の成績で当選しました。やればできるのです。 せっかく芝川初の女性議員になったのですから、女性の歩みを止めてはいけないと思いましたし、地域の事情でなぜ女性が選挙に出ることをあきらめなければいけないのか納得がいきませんでした。 ですから、4年前は県議選から出馬しました。 テーブルを変えたのです。 富士宮市の4万軒の家を一人で一年かけて回りました。 後援会長と家族だけの組織でした。 いきなりの県議選ですからダメもかもしれないという思いがいつも心のどこかにあり、切ない選挙運動でした。 それでも、やるといったらやったのです。 お陰様で、約6,000人の方の票を頂くことができました。 とても貴重で暖かい大きな票だったと思い感謝しました。 落選してからの4年間は大阪や東京に政治の勉強に行きました。 どうしても、政治をあきらめることができませんでした。 大切なことはすべて議会で決まっていくことを知っていたからです。 また、自分たちの街は自分たちで守っていかないとどこに流されてしまうかわからないことを芝川と富士宮市の合併で経験しました。 いくら署名運動や住民投票も成功させても、また町長選で首長を変えても合併ができませんでした。私たち町民は3回も声をあげたのに議会に行って手をあげなければ合併ができませんでした。 何としてでも、議会のその場に行こうと思っていました。 ですから、今回は市議選から出馬しようと思いましたが、 しかし、市立病院の整形外科が入院・手術できない深刻な状況で誰もそのことを解決しようとしない現状を見たとき愕然としました。 そんな時に、私の7人目の孫が市立病院に入院したのです。 生後28日でした。その時に小児科も産婦人科も麻酔科も深刻なことを知りました。 私は生後28日の孫の命を私の命に代えても助けてほしいと神様にお願いしましたら、 孫が何とか元気に退院できましたので、私は神様に預けた私の命を今使う時だと思ったのです。 夫に相談した時に夫もうなずいてくれました。 子供たちにも相談しましたら、「人生は一度きりだからしたいことをして後悔がない人生を送った方がいい!」と背中を押してくれたのです。 お金はありません。が昔の村長さんは自分の財産を切り売りして村民に分け与えたことをいつも思い出します。ですから、今の家や土地を売ってもいいような覚悟で市長選をやる決意を夫と二人でしました。 7人目の孫を助けてもらい、子供たちをしっかりと育てていただいた地域へのご恩返しです。 覚悟が決まると、怖いものはありません。 それからいろいろな事を調べました。情報公開制度を利用しました。 市立病院の医師不足の原因が今の市長にあることも情報公開の資料で知りました。 長い間、医大へご挨拶に行かなかったり、また医大との関係を壊してしまったことを知った時に絶対に無投票にできないと思いました。 怪我をすると他の市町村に運ばれてしまう数が前年度の12倍ぐらいある現状 他の市町村に運ばれてしまった患者さんの家族の負担が大きいこと 小児科の夜の救急体制がないので、小児科も前年度の3倍、県立こども病院に搬送されている現状 救急車が他の市町村に行っているためにてんてこ舞いしている現状! ベットの稼働率が66.1%で3年、70%を下回ると市立病院の縮小や統合移転が予想されること また、近隣の市町村に一番迷惑をかけていること 整形がないばかりに8億円の損失 ドクターヘリの出動回数が半端でなく多いこと このことを何度も何度も街頭や医療を語る会・リーフレットやチラシで情報を発信してきましたがなかなか市民の皆さんに理解していただくことが難しかった。 また、現役の市長が相手ですから、市民の皆さんが声をあげられません。 大変勇気がいることなんです。 小さな組織でほとんどが知人と家族との小さな小さな組織でした。 出発式も多くて50人ぐらい、家族と友人、知人です。 日ごとにこんな少ない人数で勝てるのか!不安が増してくる日々でした。 しかし、しがらみがないというところでは理想の形です。 私は街頭演説を2月から一日も休まずにやってまいりました。 最初は一日に3回から始め最後には一日に12回ぐらいをこなしていました。 一回が30分です。それを述べ600回やってきました。 皆さんの反応がだんだん違ってくることを実感し、ほとんど一日中外に立ち、マイクを握り街頭をやってまいりました。 「交差点の女」「オレンジの人」「やると言ったらやる!の人」などと言われ、一日に5回ぐらい見たとか言われるようになり、少しずつ風が吹いてきました。 小さなお孫さんが「近藤ちづるさんは何人いるの?」と言われたそうです。どこにも私が立っているからでしょう。 雨の日も風の日も77日間、一日も休まずに告示までやり通しました。 135,000人の命がかかっているということがいつも心の中にありました。 また、女でも最後まで市長選をやり抜くことができるのだということ証明したかったです。 また街頭演説の合間に、私と秘書で浜松医大の教授の先生と5回ほどお会いしてきました。 ご挨拶と富士宮市立病院の現状を訴えてきました。 どの教授の皆様も富士宮市に好意的に思ってくださっていました。 少しでも多くの票を頂き、医療問題で声を挙げたことを医大の先生にわかっていただこうと強く思いました。 また、私は27ページに及ぶ政策集も作成し、富士宮市のまちづくりに夢を持っていました。 市長になりたかった。 あれもしたかった、これもしたかった。したいことばかりでした。 女性が市長になったら必ず白黒のテレビが一瞬にしてカラーに代わるようなそんな街づくりができるのです。 命の物差しで政治ができるのです。 市立病院の問題もそうですが、やはり存在そのものが未来の子供たちの事を一生懸命やっていきたかった。 私の力不足でした。 市民の皆さんにしっかりと今の富士宮市の現状を情報公開していくことができませんでした。 組織も大きくすることができませんでした。 どんなに頑張ってもどうにもならないことがあるのです。 選挙や政治は大きな組織や大きな会社がないとなかなか厳しい現状があります。 しかし、私は変えていきたかった。 変えていけると思いました。 小さな組織でもしっかりとした信念や志があれば、必ず変えていけると・・・・ そうでなければ、大きな組織の選挙をやっていたら、若い人や女性たちが政治を目指さなくなってしまいます。 生活はすべて女性が直結しています。 その生活は政治で成り立っています。 ですから、これからの女性はしっかりと政治を見つめ、政治に参画していかなければ 自分たちの生活や子供たちを守れません。 この市立病院の問題がまさしくその通りなのです。 しかし、18,000人の人たちが私に賛同してくださいました。 医療問題で声をあげたのです。 無投票にしなくて良かったのです。 議会には行けませんでしたが、選挙中に須藤市長は5月にはお医者様を連れてくる!元通りになると公言しておりましたので、市立病院の問題を争点にした成果があったわけです。 他の議員さんたちも市立病院の問題解決を公約に挙げております。 市立病院の問題が動き出したのです。 助かる命があります。後遺症に苦しむ人もなくなります。 他の市町村に運ばれる人が少なくなり、家族の人たちも助かるのです。そして小さな子供たちの命も守れるのです。 今は須藤市長や議員さんたちを信じ、ひたすらお医者様が来ることを期待しております。 もし、約束を破ったら拡声器の「鶴子」を背負い、また、私の街頭演説が始まることを覚悟してほしい! 私は1人だけでたっているのではありません。 18,000人の思いが私の後ろにはついているのです。 責任があるのです。 私の5か月間の選挙戦では強い絆だけが残りました。 たくさんの人たちに助けていただきました。 私の分身のように動いてくださったSさん。 私を支えてくれた秘書のAさん。 いつもいつも私を心配し、お手伝いをしてくれ見守ってくれた友人・同級生 家族の一致団結した思いや嫁のご両親の暖かい思いやりなど 一人ではできませんでした。感謝!感謝です。 選挙はすべてのものをふるいにかけます。 町議選をやり、県議選をやり、そして市長選をやり、そのたびに新しい出会いと強いきずなを得てきました。 また、私の子供たちや友人もいろいろな選挙を経験し、社会をしっかり見ていかなければならないことを知ったといいます。 選挙や政治を身近に感じたと思います。 お金を残したり財産を残すことはできませんが、私の子供たちが何かにぶつかったときに、夫と私の後姿を思い出し、どんなつらいことがあっても夫婦で乗り越えていく勇気を持ってほしい! そして、みんなで声を挙げてほしい! 黙っていることは、また無関心でいることはそれでいいと認めたことです。 投票率が低いことが大変残念でした。 無関心でいると必ず次の世代の人たちに無関心をされます。 自分たちの事だけ考えていると、必ず子供たちにそうされるのです。 歴史は繰り返されます。 私のやっていることがすべて正しいとは思いません。 今日も夫と犬の散歩をしていると、自然と涙が頬を伝いました。 「私たちがやったことは何が残ったのかしら?」と夫に問うと 「それでいいんだよ!わからないけど、黙っていられなかっただけだからそれでいいんだよ!これからも笑っていればいい!」と夫は言う。 私もうなずきました。 まだまだ、立ち直るには時間がかかりますが、私は これからも決して大きいものにも屈せない、長いものにも巻かれない! それを貫いていこうと思っています。夫と二人でできることを精いっぱいやっていきます。 いろいろ皆様に励ましのお言葉やお心のこもった心遣いを頂き本当にありがとうございました。 これからも、悶々と考えているより、しっかりものを言っていく選択をしていきます。 そして、どんなことも、明るくやってまいります。 そこに大きな希望を感じてくださいね。 いろいろありがとうございました。




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